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トークイベント「パソコンの元祖TK80・実演とシンポジウム」参加

TK-80

 東京理科大学の近代科学資料館「パソコンの歴史展」の一環として、トークイベント「パソコンの元祖TK80・実演とシンポジウム」が開催されました。アスキー総研の遠藤諭さんを司会に、TK-80開発者の後藤富雄さん、TK-80開発プロジェクト責任者の渡辺和也さん、TK-80エミュレータを開発した榊正憲さんらが登壇して、昔のマイコンに関する談義をくりひろげました。

 参加者もやはりというか、年齢層が高く、さながらR40状態。しかも、そこかしこに関係者が座ってたりしたようです。

 NECのマイコンやパソコンというと、とても日向を歩いてきた印象があるのですが、実は「異端だったからやれた、やってのけた」というプロジェクトだったということがわかり、驚きました。上前淳一郎さんの「読むクスリ」でそのあたりが紹介されているということなので、今度読んでみよう。

 ちなみに、奇しくもTK-80を産んだNECエレクトロニクスが4月1日づけでルネサスと合併する直前、というタイミングのイベントでした。

 以下、メモ。

「4004の翌年にNECの互換CPUが登場した」---遠藤諭氏

遠藤諭氏 - TK-80イベント

 まず、司会の遠藤さんが、パネリストを紹介したあと、TK-80前後のマイコンの歴史を紹介しました。年表は開始直前にステージのスクリーンに映しながら作っていたもので、その時点で観客もまじえて当時を思い出す談義がくりひろげられました。

 マイコンの歴史は1971年のIntel 4004に始まります。ここで、アポロ計画クラスからミニコンまでは来ていたコンピュータが、一気に民生品になりました。

 翌1972年には早くもNECが互換CPUのμCOM4を、1973年には8bitのμCOM8を開発しています。そして、1976年にTK-80が発売されたわけです。なお、1977年には元祖パソコン御三家のApple-II、PET2001、TRS-80が登場したとのことでした。

「コンピュータ部門じゃないから作れた」---渡辺和也氏

渡辺和也氏 - TK-80イベント

 続いて、TK-80プロジェクト責任者の渡辺和也さんが話しました。

 開発当時のコンピュータというと、銀行のシステムや国鉄の予約システムなど、スリッパに履きかえてコンピュータを拝むという世界。そこにマイコンチップが登場したものの、NEC社内でもコンピュータ部門からは低く見られていたという話でした。しかし渡辺さんは「コンピュータ部門じゃない半導体部門だからこそ、集積度の進歩を感じて、マイコンの可能性を理解できた」そうです。

 実際、日本の1年分のコンピュータと同じ数を、マイクロチップとして工場で1日で作れる、という数字だったそうです。ただし、それだけ作ってもまだマーケットがない、そこでそのマーケットを作るというのが任務として与えられた結果がTK-80だったと語られました。

 ハードとしては、家庭用ミシンや家庭用編み機、電動タイプライターなどに使ってもらうことで、生産ロットがはけるようになります。いっぽう、ソフトウェアを増やすためには教える必要がある、黒板とテキストでは理解できないことでも実物があればすぐわかる、そこで教育キットを作ろう、というのがTK(Training Kit)の目的だったそうです。

 実際に教えるとなると入出力が必要です。大きなコンピュータはテレタイプ(ASR-33)を使っていましたが、マイコン教室では使えません。そこで、入力に16進キーボードを、出力に8セグメントLEDを付けたそうです。ここで、8セグメントLEDを使って16進数のA~Fを表示するのに悩んだのですが、苦肉の策として「bとdは小文字で」という割り切りをしたというエピソードが語られました。

 TK-80の画期的だったことは、組立キットとして販売し、技術資料や関係情報を積極的に開示したこと。当時のメーカーではありえない、常識はずれのことだったそうです。これによって結果的にサードパーティが誕生し、パソコンビジネスというものができたとの話でした。ちなみにPC-8001の頃にも、ソフトを自社で開発しないことを社内外から批判されたものの、「ソフトは1社ではできない」ということで押し通し、サードパーティーのソフトが増えて成功したという話もありました。

 もう一つ当時の常識からはずれていたのが、秋葉原にショップのBit-INNを作ったこと。当時の常識では立派なセンターを作るのが定石だったため、競合他社からは奇異の目から見られたそうです。結果として、Bit-INNには数多くの幅広い層の人が集まり、マイコンブームを作ったそうです。

 そんな常識はずれのプロジェクトだったので、社内の反対を避けるために、社内では内緒にして進めたそうです。そのかわりに、Bit-INNを通して直接市場の声を聞いたとか。そうした状況は、PC-8001がヒットまで続いたとの話でした。

 ちなみに、いまだから言えるエピソードとして、「無限の可能性TK-80」というキャッチフレーズを打ち出したところ、故石田晴久教授から「コンピュータを誰もが使えるかのように言うのは、素人騙している」とお叱りを受けたという話も紹介されました。

 こうした経験をふまえ、渡辺さんは「8割の人が反対しているぐらいのときがチャンス」「既成概念にとらわれるな」「ユーザーオリエンテッドで」「世界で起こっていることの情報を10日以内に仕入れる」の4つの言葉で締めました。

「異端児たちのコラボレーション」---後藤富雄氏

後藤富雄氏 - TK-80イベント

 TK-80開発者の後藤富雄さんは、自らの半生に重ねて、TK-80がどうやって生まれたかを話しました。いわく、機械いじりの好きな親を見て育ち、「喧嘩は嫌い、話せばわかる」というオープン指向の性格に。高専ではコンピュータはなかったけどブール代数などの基礎をマスター。NECに入社して入ったテニス部で組織を越えたつながりを得た。そうしたすべてのことが助走となり、製品開発に結びついた、と語りました。

 また、製造装置を開発する部隊でテスター機械としてDEC PDP-8に出会った話や、4bitマイコンの登場により渡辺さんに誘われた話、NECでIntel互換チップ(「おおらかな時代だった」とのこと)を作るときに開発者がロジックのバグを直してしまった話、当時高価だったEEPROMやSRAMをふんだんに使わせてもらった話なども紹介されました。

 TK-80の試作機も写真で紹介されました。プリント基盤ができていなかったのでラッピング仕様で、横須賀研に納入されたそうです。

TK-80試作機

 入出力の話も渡辺さんに「安い入出力手段はないか」とだけ言われて考えたそうです。大好きな秋葉原で輸入雑誌を見て、載っていた「KIM-1」の写真がヒントになったとか。ただし、KIM-1は入力や表示をプログラムでやっているのでプログラムを走らせると表示が消えるとか、キーボードのチャタリングがひどいとかいうのを解決したそうです。チャタリング防止チップを使わず、タイミングで解消する、という手法も社内のコミュニケーションから生まれたという話も紹介されました。

 また、今だから言える話として、TK-80の開発は時間がなかったので労組に隠れてスト破り状態で作業した、最後は社宅でこそこそ開発した、というエピソードも語られました。

 最後に、TK-80はいろいろな人にめぐりあえたことでできた、渡辺さんのオープンマインドと異端児たちの発想で開発された、と締めました。

「ユーザーにとってはギャップがあり、そこからマニアが育った」---榊正憲氏

榊正憲氏  - TK-80イベント

 榊正憲さんはユーザー側の視点から、TK-80とその時代を解説しました。

 まず、1979年にNHK教育で「コンピュータ講座」が開講。森口繁一さんほか豪華メンバーが講師だったそうです。テキストの実物を見せながら話していましたが、BASICやFortranでサラリーマン巡回問題とかハノイの塔とかを解くといった内容だったとか。

 といっても、当時は個人で使えるコンピュータなどない。そんなときに現れたのがTK-80でした。しかも、ちゃんとパッケージングされている「カッコいいキット」で「タミヤのキットみたい」だと思ったそうです。

TK-80のキット構成

 ただし、組み立てたあとに待っていたのは、BASICやFortranと違う16進マシン語の世界。「売れたというけど、かなりの人がそこで挫折した」そうです。ちょうど一般誌などでも「マイコンで競馬予想もできる」のように夢を煽っていて、その結果「短いブームだった」というのが榊さんの意見でした。短いブームという点については、遠藤さんは、ちょっと違うんじゃないかとツッコんでましたが。

 それでも、アマチュアが食いついたことにより世界が広がり、生き残った人たちが次のブームを作った、というのが榊さんの見たマイコン創世記のようです。特に、ソフトから入った人がハードを勉強するという流れた発生した、たとえばディスプレイインターフェイスを作ろうと論理回路の勉強を始めて雑誌へフィードバック、それにより次の人がハードを勉強、ということがあったそうです。

 その他、当時の雑誌などの資料をふんだんに紹介しながら、メモリカード自作や、セーブするデバイス、FD+CP/M+BASIC+スタートレックゲームが最高峰だった話、ゴルフボールタイプライターを動かすのがマニアの夢だった話、PET 2001がオールインワンで登場した話、IMSAI 8080はミニコン系の設計だった話(「これを使うと、16進キーはなんて便利なんだろうと」)、ASR-33はすべてメカで制御されていたという話、などが次々と紹介されました。

 ちなみに、当時はTK-80の89,500円(うち送料1,000円)という価格がネックだったけど、実は当時構成部品を集めるとこのぐらいの値段になるはず、という話も紹介されました。

「West Coast Conputer Fairはコミケみたいなものだった」

West Coast Computer Fair

 その流れで、いまや伝説となった最初のWest Coast Conputer Fair(1977年)の模様を、写真をまじえて後藤さんが紹介しました。会場の上のほうからの写真を見せながら、いわく「コミケみたいなもの(笑)」と。企業も個人も出展していて、Microsoftが「We make the standard」というキャッチフレーズでブースを出していたり、Verbatimのブースがあったり、PETが発表されたり、すでに障害者の補助のためにIMSAI+大きなLEDという機器が展示されていたり、といったさまざまなことがあったようです。TK-80も、NECではなく教育関係の利用例として展示されていたとか。ちなみに、会場中でソフトの「交換会」が開かれていたというのが、当時らしいですね。

 なお、渡辺さんは、West Coast Computer Fairを口実に(社内で認められてないので)渡米してMicrosoftを訪問し、ビル・ゲイツと初めて会って商談を決めたそうです。当時、Microsoftは社員12人で、ビルが22才ぐらい。ちなみに渡辺さん40才ぐらいだったとか。

TK-80が動いた

 トークセッションの後は、「TK-80を動かそう!」と題して、参加者が持ち込んだTK-80世代のマシンによるデモ大会が開かれました。

 …というのがものすごく面白そうだったのですが、実は私はスケジュールの都合で見られませんでした。残念。

 それまでの休み時間に見た化物マシンがこれ(UEIの水野さん作)。TK-80(正確にはTK-85)に小さいボードが載っていて、RJ-45コネクタが付いています。インターネット対応のTK-80だそうで、ボードにはARM系のカスタムチップが載っていてTCP/IP通信したりTK-80を制御したりできるとか。スイッチでモードを切り替えると、カスタムチップからTK-80のLEDを操作するとか、HTTPサーバーになってネットワーク越しにTK-85をコントロールできるとかの機能を変更できるそうです。…それってどっちが本体?(笑)

インターネット接続TK-80(1) インターネット接続TK-80(2)

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